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2013年10月31日木曜日

無力。


 明日には間違いなくトラブルに発展することが予想されるアクシデントが発生。予定していた旅程を変更、帰京を明日へ伸ばし、東京での予定も後ろ倒しにする。

 新千歳空港へは向かわず、スーパーおおぞらとかいう列車を使って釧路へ向かう。車中、電波状況が比較的良好な場所から航空会社へ電話。使用航路ならびに日程変更の旨を伝える――折り返し、ではない着信。連れ合いからだった。

   1

 その身肉(みしし)を食らわれ、毛皮や非食用部分は装飾や生活の道具にされ、見せものや博奕といった娯楽に供されることもある人間以外の生きものを、彼らの意思などお構いなしで使役する人間ども。そういう己の身勝手を充分知った上で、それとは全く別の思考を以て彼らを飼い、愛玩する、これまたご都合主義花盛りの人間ども。そしてその対象が死ぬと心を乱し、やらなくちゃならないことを半ば公然と放棄して幾日も涙したりする、くそ馬鹿馬鹿しい俺たち人間ども。

 だが、ステーキは旨い。ペットを膝にそいつを食らったところで責めてくる奴などいやしない。つまり、この世の矛盾はシカトしておけばなにも問題にはならない。

 結果としては同じことなのに対象をどう捉えるかの違いで、人間という生きものは幾通りもの振る舞いができる。来週か再来週、家族が欠けるということをついさっきの電話で連れ合いから報された。

 伝染性腹膜炎に悪性リンパ腫。肝臓、腎臓、胆嚢に至っては既に機能不全を起こしかけている状態。どんな言葉を以てしてもいい表すことができない思い。だが、本当の意味で打ちのめされたのは、この告知に継いで聞かされた言葉のほうだった。
『この病気が治る、ということはありません。現代獣医学でこの病気を治すこともできません。ウイルスに対する有効な手立てがないのです。それから、これも申し上げにくいことですが……自然死ではない、この病気による死を必ず迎えます。その時期はそう遠くありません』

 要するに近いうち百パーセント死ぬ──獣医がいってることはそういうことだった。

 この世に生を受けて六百日あまりの小さな命。生きたというにはあまりにも短い。生命活動を徐々に止め、土へ還ることを強いられた命魂。なにもそんな禍々しいものをウチの猫に押し付けてこなくたっていいだろう。なんで他所の猫じゃないんだ――埒もない考えが頭を過る。俺たちは可能な限りの延命治療を願いでた。

 不治の病ならいっそ知らずにいたかった、という身勝手な思い。死んだ生きものはただの肉の塊。生きてる間にしたって、人の支配や愛玩の欲によってそうされているだけに過ぎない軽い命――避けられないそのときがやってきたら、そう思おうと心に決めた。

   2   

 猫伝染性腹膜炎。通称FIP(Feline Infectious Peritonitis)と呼ばれるこいつが、気狂(きちが)いじみたスピードで『おね』の命を削り取っていく悪魔の正体だ。

 感染力は強くも弱くもなく、ほとんどの猫が生まれつき持っているウイルスで発病はごく稀といわれている病気。生後六ヶ月から五歳の間に発症するケースが最も多く、次いで老年期に差し掛かる頃から再び発症率が上がるという、二段構えの統計が出ている。要するにウチの猫どもはすべて発症レッドゾーン真っ只中というわけだ。

 今のところ、おね以外がそいつを発症している様子はない。不幸中の幸いという言葉を思いだし、いやな気分になった。
『おね』というのは罹患、発病した猫の名前。姉妹で飼うことにしたアビシニアンの姉という安直な理由で俺が名付けた。同じ理由で妹のほうは『いも』という。

 おねの容態確認を急ぎたかった。空港中央から最短かつ最速と思われるルートを選び、アクセルを踏みつける。記録的な速さでの帰宅に成功した。

 キッチンシンクに身を横たえるおね──今までに一度も見たことがない光景。もう死んでしまったのかと早合点する俺に向かって、連れ合いがここまでの経緯を淡々と説明する。窺い見るようにして顔を近づけるとおねは顔を背け、どこか一点を見つめながら静かで浅い呼吸を繰り返した。

 病気について詳しく書かれた資料に目を通す──札幌にいたときに聞かされたことと同じことが書いてあるだけだった。俺はリビングでノートパソコンを開き、『FIP』で引っ掛けてきた情報を頭からクリックしていった。

 ACE阻害剤、インターフェロン治療、ステロイド投与、ユッカ、サポニン、プレドニゾロン、抗体値、ドイツ製の薬品・トラウメール、日本動物高度医療センター、二十四時間静脈点滴。

 関係語句を幾つか見つけだし、それらを元に延命、あわよくば完治する方法──非常に非人道的だが、他の健康な猫からの臓器移植が可能かどうかなども頭の端に置きつつ、慎重にページを手繰っていく。

 一縷の望みを繋ぐ記事もあるにはあった。だが、そこに治療に関しての具体的な記述はなく、結局は時間と努力、最終的には運次第のようなことが書かれているだけだった。

 満足のいく情報を得られないまま時間だけが過ぎていくことへの焦りと、おねを蝕む病魔への怒りを押さえ込むのにかなりの労力が必要になってきている。連れ合いが淹れてくれたコーヒーを胃へ流し込んで気を紛らわせた。煙草を喫いたかったが、禁煙の影響でこの家にそれはない。代わりに薄荷味のパイプを口に挟んだ。

 リンクを辿る中で有効と思われるものを見つける。対症療法ではあるものの、延命期間が従来の何倍にも長期化できる薬がアメリカにある、というものだった。国内での使用はまだ正式に認められてはおらず、効果のほどについても様々で、まとまりをみせていない。とはいえ火のないところに煙は立たないはず。俺は薬の名前を新規メールに打ち込み、下書き保存した。

 ブックマークした情報を頭で整理しながら、場所を変えて俯せになっているおねを見た。様子に大きな変化は見られない。小康状態を保っている、という体《てい》だ。他の連中はおねの異変に気づいているのだろうか。それでもなにかは感じ取っているようで、一定の距離を保ちつつ、覗き込んだり臭いを嗅いだりしている。いもだけが自分の毛繕いに余念がない。唯一の肉親のくせに。

 ときおり見せる、目をかっと開くような表情。獣医は痛みよりも衰弱といっていたが、そんあものは嘘で、やはり激痛がどこかに走るのだろう。邪な思いで密かに探っていた、他の健康な猫からの臓器移植による解決方法はついに見つけることができなかった。

 彼女がまた目を見開く。命の灯が、魂が、燃えていく。

   3

 入院二日目。主治医よりおねの病状説明を受ける。心膿水(しんのうすい)の除去、インターフェロン、ステロイド剤の注射による投与、栄養剤の点滴投与。それぞれ、摘出組織の現物、レントゲン写真、エコー画像などを用いての説明。肺水腫に対する投薬、施術は行われていない。

「先生、肺水腫のほうは?」
「今日は心膿水の除去だけにしておきました」

 のんびりしてんじゃねえよ──喉元まで声が出掛かる。

「開いてやるからですか? 胸か腹かわかりませんが」
「いえ、基本的には利尿剤を使います。経口投与、注射、どちらでも可能です。ただ、今回この心膿水を取り除くことによって、肺の炎症も緩和されていく、ということも考えられます。少しだけ様子を見させてください」

 手抜きではなさそうな口振り。

「先生、例の薬使ってもらえないですかね」

 例の薬──ベスタチン。アメリカで開発され、一部では劇的な効果をもたらしたといわれている抗悪性腫瘍剤。ここの前にかかった動物病院では使わせてもらえなかった。

「効果のほどはわかりませんよ」
「構いません。インターフェロンとステロイドも同時に投与して問題がなければそれも頼みます」
「インターフェロンとステロイドについてはアニコムが使えますが」
「加入してないです。でも気にしないでやってください、金のほうは大丈夫ですから」
「わかりました」

 命に対する金の話を終え、主治医とともに病棟のおねのところへと向かう。

 おねは昨日と同じ酸素室にいた。シートの上へ体を横たえ――というより、ただぶっ倒れているような格好。呼吸が認められる腹部の動き以外は微動だにせず、おねの顔は無機質なステンレスの壁のほうに向いていた。こちらの気配に神経を向けるだけの余力が彼女にはもうないのだろう。死という、すぐそこまで忍び寄ってきているかもしれない非現実を思うたびに奥歯がいやな音を立てた。

 トイレに排泄の痕跡はなく、食餌もそのままになっているようだった。右前脚の皮下に差し込まれた点滴のチューブを見ているだけで喉が痛くなった。

 連れ合いが名前を呼ぶとおねは狂ったように鳴きだし、もうまともに動かせなくなっている四肢をなんとか動かしてこっちを向いた――見るに堪えないやつれ顔。瞳が揺れ、目の焦点もなかなか定まってこない。

 ゲージにしがみつく連れ合いを病室に残し、俺はそこを後にした。

 院外の庇の下に設置されている喫煙スペースで煙草を喫った。豪雨と呼んで差し支えない雨が靴の先を容赦なく濡らす。なにもかもが苛立たしかった。舌打ちしながら携帯を開き、金を返さない奴に電話をする──如何ともし難い感情の捌け口。

 電波が伝えてくるへらへらした受答えが苛つきを増幅する。殺すという言葉を繰り返し唸っているうちに、本当にそうしたくなってきた。おねが生きる力を取り戻してくれるのなら、俺はためらうことなく電話の男を死に至らしめることができる。

「お前、死ねよ、その場で」

 太股に叩きつけて携帯を閉じ、天から流れ落ちてくる滝の飛沫で煙草の火を消した。

 おね、生きろ。

   4

 くそ暑いだけの一日だった。おまけに煙草もすこぶる不味い。

 体調不良は煙草のせいだと決めつけ、禁煙に踏み切ったのが先々週の話。死に神が彼女に狙いを定める少し前。今じゃただのシールと化している二の腕のニコチネルパッチを剥がして丸め、吸殻の山の真ん中へそいつを突っ込んだ。

 水槽の水が澄んでいた。活性炭、珊瑚、B4、フォー・イン・ワン、PSB。どんな手を使ってもだめだった濁りがなくなり、ペーハー値も驚くほど下がっている。毎日のように水面を埋め尽くしていた熱帯魚たちは死ぬのを止め、代わりに泳ぐことに専念しはじめた──水槽の処分先を探していた矢先の出来事。最近は一事が万事、この調子だ。

 夏の北海道は快適だった。札幌、帯広、釧路と廻ってきたが、どの街も東京とは比較にならない心地好さだった。

 左の手首に巻き付けていたルチルのブレスを床へ叩き付けてみた。面白いように砕け散っていくまやかしの珠を眺めながら、笑おうとしたが上手くそいつができなかった。代わりに新しい煙草を指に挟み、短くなった煙草を吸い殻の山の隙間へ捻じ込んだ。

 増煙のきっかけにしかならなかった禁煙。俺は残りのニコチネルパッチを箱ごとゴミ箱へ放り、足下でバラバラになっている珠の残骸を踏みにじったり、蹴飛ばしたりしながら死んでもどうってことのない熱帯魚の泳ぎを目で追った。

 鼻をかみ、冷たくなった珈琲を啜る。相変わらず喉が痛かった。

 本気で願ったことが叶ったためしなど俺には一度もない。それどころかいつだってその手のことは逆の結果に終わっていた。

 この世など消えてなくなればいいと俺が思っている限り、この星は安泰は約束されている。

 秋になったらまた禁煙をしよう。

 風が光の世界へおねを運んでいった。


   了





4 件のコメント:

  1. おねちゃんって名前の由来はそこからだったのね。。

    深い愛情に包まれて
    しあわせに天国に旅立ったよね。。
    残されたものは辛いけど。。

    静岡にだったら
    動物病院の知り合いおるねんけどなぁ。

    とても素敵な文章ありがとう。

    てか、こんな所があるなんて今日気が付いた―――――汗

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  2. もう昔の話さ。

    実はあちこちのブログに違う内容のことを書き散らしてるw

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  3. 烏賊女もかきちらかして~~~~
    (まだいうか~~~~~爆

    だって、大好きやねんもん~

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